更新日:2023年2月15日
先人が築いてきた良き伝統を継承し、歴史の紡ぎ手として次代を切り拓き、いかなる状況下においても首都東京の安全・安心を守り、都民国民の信頼に応えるという決意を新たにし、日頃の警察業務への協力に対して感謝の意を伝えてまいります。
概要
記念事業の基本コンセプト
- 都民への感謝
- 伝統の継承
- 未来への飛躍と発展
記念ロゴの決定
警視庁職員から記念ロゴのデザインを募集し、計736点の応募がありました。
一次審査、二次審査を経て、警視庁創立150年記念行事運営委員会において、大島警察署の女性警察官が考案したデザインが記念ロゴに選ばれました。
制作者が作品に込めた想い
ひと目で警視庁らしさ、安心感、信頼感を伝えたいと思いました。
伝統の継承を、図案化したエンブレムの桜葉で表現するとともに、「150」の「0」と
警視庁の歴史を振り返る
創立記念日
明治7年(1874年)1月15日、東京警視庁が設置されました。
創立までの経緯
慶応3年10月14日徳川幕府が崩壊し、天皇親政の明治の世となって早くも7年の歳月は流れた。
この間、わが国は政治、経済、文化等あらゆる制度文物を諸外国から吸収してめざましい発展を遂げ、近代国家建設へと力強い歩みを続けた。
しかし、時代の流れと社会の進展とに伴って、治安関係も次第に複雑化を加えたため、これに対応する警察制度を確立する必要に迫られた。
このため政府は、明治5年9月8日大警視川路利良等を警察制度研究のため、欧州へ出張を命じた。かの地にあること一年で帰朝した川路大警視等は、わが国の警察制度が欧州各国に比して余りにもおくれていることを知り、その不備を指摘して改革の必要を強調し、特に首府であり、政治、経済、文化の中心地である東京に、独立した首府警察の実現を図るべきであると政府に建議した。
この建議こそが、東京警視庁の設置を促がす動機となって、明治七年一月十五日太政官達第六号をもって、東京府下の警察事務一切を管理する、東京警視庁の創置となったのである。
東京警視庁設置のきっかけ
近代的警察制度の確立を大きく推進したのは、ヨーロッパの警察制度視察の成果をまとめた川路利良の「建議草案」でした。この建議がきっかけとなって東京警視庁が設置され、川路利良は初代大警視(現在の警視総監)に任命されました。
国事犯については、全て警視庁の長に執行の権限が与えられ、明治39年(1906年)警視庁官制の改正まで、その権限は全国に及んでいました。
このため、西南の役はもとより佐賀、萩、秋月、神風連などの騒乱に際し、警視庁の警察官が各地に派遣され、騒乱の鎮圧または警戒警備にあたりました。
このような士族の反乱が各地で頻発したことから、政府は全国の警察を一元化して対処する必要に迫られ、警察力を内務省の直轄下(国家警察)に置くことに決まり、明治10年(1877年)1月、東京警視庁は発足からわずか3年を経ずして廃止されました。
内務省警視局に吸収されて「東京警視本署」となりますが、実質的には明治7年(1874年)1月15日の東京警視庁の設置こそが、警視庁の歴史と伝統の第一歩となります。
川路大警視の建議草案
初代大警視 川路利良の軌跡
川路利良は、明治4年(1871年)、東京府大属となり、新しい警察制度づくりに取り組みました。
初代大警視(現在の警視総監)を務め、日本の近代的な警察制度を実現させた川路大警視は、日本警察の創設者にして、「日本警察の父」とも言われています。
初代大警視 川路利良
略歴
年月 | 内容 | |
---|---|---|
天保5年(1834年) | 5月11日 | 鹿児島に生まれる |
文久3年(1863年) | 薩英戦争に従軍 | |
慶応4年(1868年) | 戊辰戦争出征 | |
明治2年(1869年) | 9月 | 戊辰戦争の功により、薩摩藩の兵器奉行となる |
明治4年(1871年) | 4月 | 東京府大属となる |
明治5年(1872年) | 5月 | |
同年 | 9月 | 警察制度視察のため、欧州各国に出張 |
明治6年(1873年) | 9月 | 帰国 |
明治7年(1874年) | 1月24日 | 東京警視庁の初代の長(現在の警視総監)となる |
明治10年(1877年) | 2月 | 別働第三旅団司令長官として西南の役の鎮圧にあたる |
明治12年(1879年) | 春 | 警察制度視察のため再び欧州への出張中に発病し、帰国 |
同年 | 10月13日 | 享年46歳で逝去 |
制服の移り変わり
明治4年(1871年)の
第二次大戦後、それまでの詰襟から背広型へとデザインを一新。現在の制服は、機能性・活動性とともに、警察官にふさわしいりりしさや美しさも兼ね備えた物になっています。
男性警察官の制服
種類 | 階級 | 使用期間 |
---|---|---|
常衣 | 警部・警部補 | 明治23年(1890年)から明治41年(1908年) |
冬服 | 巡査部長 | 明治41年(1908年)から昭和10年(1935年) |
盛夏衣 | 巡査 | 昭和24年(1949年)から昭和29年(1954年) |
冬服 | 巡査 | 昭和43年(1968年)から平成6年(1994年) |
現制服 | 巡査 | 平成6年(1994年)から現在 |
女性警察官の制服
種類 | 階級 | 使用期間 |
---|---|---|
盛夏衣 | 巡査 | 昭和24年(1949年)から昭和26年(1951年) |
冬服 | 巡査 | 昭和26年(1951年)から昭和29年(1954年) |
冬服 | 巡査 | 昭和51年(1976年)から平成6年(1994年) |
現制服 | 巡査 | 平成6年(1994年)から現在 |
警視庁庁舎の移り変わり
警視庁本部庁舎は、明治7年(1874年)の東京警視庁創設以来、鍛冶橋庁舎、日比谷庁舎、馬場先門内仮設庁舎、旧桜田門庁舎と、時代の変遷とともに移転してきました。庁舎の移り変わりについてご紹介します。
鍛冶橋第一次庁舎
設置日
明治7年(1874年)1月24日
所在地
八重洲町2の4(鍛冶橋内、元津山藩邸)
東京警視庁の創立とともに、元津山藩邸の一部を改修して庁舎としました。
その後、明治10年(1877年)1月に内務省直轄の東京警視本署となり、明治14年(1881年)1月に警視庁として再設置され、機構の上では変革がありましたが、庁舎は明治15年(1882年)12月4日まで使用していました。
鍛冶橋第二次庁舎
竣工日
明治15年(1882年)12月4日
所在地
八重洲町2の4(鍛冶橋内、元津山藩邸)
第一次庁舎が老朽のため、明治15年(1882年)3月3日、同敷地内に、総工費約1万円をかけて、2階建庁舎の建築に着工、同年12月4日に竣工し、明治44年(1911年)4月16日まで使用していました。
日比谷赤煉瓦 庁舎
竣工日
明治44年(1911年)3月30日
所在地
麹町区有楽町1の9(現千代田区有楽町1丁目9番)
鍛冶橋第二次庁舎は、東京駅敷地に編入されることとなったので、明治39年(1906年)年8月8日、日比谷
大正12年(1923年)9月1日に関東大震災で焼失するまで使用していました。
仮設庁舎(震災後の仮設庁舎)
開始日
大正12年(1923年)9月5日
府立一中、商工奨励館、帝劇化粧部屋の一部等を借用し、馬場先門内仮設庁舎ができるまで使用していました。
馬場先門内仮設庁舎
竣工日
大正13年(1924年)2月27日
所在地
内務省敷地内
(現在の馬場先濠皇居側、馬場先門から和田倉門にかけて)
内務省の敷地の使用許可を受け、大正12年(1923年)11月上旬、総工費約81万円をかけて、木造平屋建庁舎の建築に着工、大正13年(1924年)2月27日竣工しました。
その後次第に増築を行い、39棟を一連とした庁舎で、旧桜田門庁舎ができるまで使用していました。
旧桜田門庁舎
竣工日
昭和6年(1931年)5月29日
所在地
麹町区外桜田町1番地(現本部庁舎所在地と同じ)
(陸軍省陸軍教導団砲兵屯営の跡地)
大正15年(1926年)10月28日、約3,763坪の敷地に総工費約420万円をかけて、地下1階、地上5階建庁舎の建築に着工、5年後の昭和6年(1931年)5月29日竣工し、昭和52年(1977年)1月まで使用していました。
関東大震災後の「霞が関官庁街集中計画」の先陣を切った建築でした。
旧三井物産館
仮設庁舎
開始日
昭和51年(1976年)6月から順次移転
所在地
- 本部庁舎(港区西新橋1丁目2番9号)
(旧三井物産館) - 永田町庁舎(千代田区永田町1丁目11番39号)
(東京消防庁旧庁舎) - 新橋庁舎(港区新橋6丁目18番7号)
(現警視庁新橋庁舎所在地) - 警察総合庁舎(千代田区霞が関2丁目1番1号)
(現在も同じ) - 音楽隊仮庁舎(荒川区南千住8丁目付近)
現警視庁本部庁舎
竣工日
昭和55年(1980年)6月17日
所在地
千代田区霞が関2丁目1番1号
昭和52年(1977年)6月8日、約5,915坪の敷地に総工費約271億円をかけて、地下4階、地上18階建庁舎の建築に着工、昭和55年(1980年)6月17日竣工し、現在に至ります。
新庁舎の建設にあたり、「伝統ある首都東京の治安の殿堂にふさわしい
警視庁150年の歩み
令和5年度警視庁採用サイトでも創立150年について紹介されています。
情報発信元
警視庁 企画課 警視庁創立150年記念行事推進事務局
電話:03-3581-4321(警視庁代表)
